会報『ブラジル特報』 2008年3月号掲載

                  岸和田 仁(在ブラジル、レシーフェ)


 昨年サンパウロ人文科学研究所より上梓された本書は、とてつもない力作である。序章において、「本稿は、ただただ移民のひとりとして、鈴木悌一という人物の生きかたに感動し、その生きざまに感情移入したことを最大の動機として書かれたものである。さらにいえば、戦前の移民のなかに鈴木悌一のような異能の優れたエリートがいて、移民の歴史を刻む仕事をなしとげたことを、後世に記す作業もあっていいのではないか、という思いも多少は手伝っている」と執筆の動機が書かれているが、関係者数十人に入念なインタビューをし、関連資料、手書きの手稿、日記まで読み込んだうえで書上げられた本著は、単なる評伝のレベルをはるかに凌駕した浩瀚なる論考でもある。改めて紹介してみたい。

 まず、圧倒されるのは、彼の一生を一貫する、原典主義という読書スタイルである。中学・高校生のころから日本文学の古典や道元『正法眼蔵』を読みふけった彼は、強烈な努力と知的好奇心でいくつもの西洋諸国語をマスターし、西洋文学の古典を原文で読書する人であった。彼が愛読したのはスタンダール、ボードレール、ヴェルレーヌ、ベルグソン、サルトル、シラー、ゲーテからプラトン、古典劇までと幅広く、全て原語で読んでいた。晩年になって時間的余裕が出ると、朝プールで一泳ぎしたあと、コーヒーを飲んでから書斎で読書を楽しんだが、旺盛な読書力は終生衰えず、特に源氏物語とプラトンの君主論(ギリシャ語で!)を好んだ。

 この飛びぬけた読書量のおかげで、学問の世界で実績をあげられたばかりでなく、戦争中に凍結された日系資産の凍結解除という難問をブラジルの政治権力層との壮絶な交渉によって解決していくのである。権力側にも当然ながらインテリがいるわけで、そういった連中を相手に丁丁発止のやり取り、当意即妙の対応をするには並大抵の語学力ではとてもやれない。彼のような古典教養があったからこそ、老獪な連中を説得できたのであろう。(1942年日独伊の枢軸三カ国との国交断絶に伴い枢軸国の法人・個人の権利・

財産の種々の束縛を規定した、資産凍結令が発令され、日系企業の資産は精算。1947年から、この凍結令の解除運動が開始される。政界有力者たちへの陳情、駆け引きを担当したのが、当時日系社会のリーダーであった山本喜誉司の命を受けた鈴木悌一であった。マキアベリストにもなり得た彼には適材適所の仕事ともいえたが、生煮えのようなブラジルの政治家を相手に4年間も陳情工作を続け、1950年ようやく解除令が成立。日系社会がブラジル経済のなかで再出発するための重要な起点となった。)

 もう一つの偉業がブラジル日系人実態調査である。これは単なる統計学者による期限付き人口調査とはちがい広範なもので、調査報告の章立ては「人口、経済的側面、社会生活と文化変容、日本人のブラジル移住、移住地の状態、移住後の移動」となっている。ブラジル全土に散らばる日系人世帯全てを対象とする、このような大掛かりな実態調査は、日系よりはるかに人口の多いドイツ系でもイタリア系でも前例なく、世界でも稀だ。なにしろ調査員だけで6千人、調査そのものも大変だし、集積されたデータ処理も現在のようなパソコンもない時代ゆえ、初期のコンピューターでやったのだから気の遠くなるような大仕事だ。1958年から59年にかけて、計43万8千人を調査し、調査報告「記述偏」「資料偏」が出版されたのが1964年であった。泉靖一東大教授の全面的な協力もあったとはいえ、資金難、劣悪な環境を乗り越えて、調査を完了し、今日でも日系社会研究のバイブルとなっている、この報告が完成し得たのは、鈴木悌一という“頭脳付きフィクサー”のおかげと断言してよい。

 とまれ、サンパウロ人文科学研究所、サンパウロ大学日本語科、日本文化研究所などの創設を通じて、ブラジルの知的世界にも切り込んでいった、この学殖と行動力を兼ね備えた知性を我々は再発見すべきである。本書を多くの方々に推薦したい。