会報『ブラジル特報』 2008年1月号掲載
<日伯交流年・日本人ブラジル移住100周年記念寄稿>

                 三田 千代子(上智大学外国語学部教授・

                ポルトガル・ブラジル研究センター長・当協会理事)


はじめに

 2008年にブラジル向け日本移民が開始されて100年を迎える。1908年から1980年まで、第二次世界大戦中の10年余の間を除き、日本はブラジルとの契約に基づき移民をおよそ70年にわたって約25万人を送出した。ブラジルでは、外国移民による国内開発の時代は50年も前に終了していたが、1980年新外国人法を制定することによって、「移民」あるいは「移住」という国境を越えるヒトの移動を終焉させた。日本移民を70年の長期にわたり制度的に受け入れてきた国は、ブラジル以外にない。

ヒトの移動の新しい形態

日本では1985年に、国際協力事業団(現JICA)が、「海外開発青年制度」を発足させて、日本の若者がブラジルという外国を数年にわたり体験するという制度を整えた。開発途上国に国際協力事業団が派遣している海外青年協力隊のブラジル版である。日本は就労を目的にするにしても、永住を目的にするにしても、もはや移民送出国ではなくなったのである。ところが同年、奇しくもブラジルでは、出国者数が入国者数を上回ったとしてニュースになった。この現象は、ハイパーインフレーションによって生国を後にすることになった、ブラジル人のディアスポラ(家族の離散)の結果である。この時、ブラジルはその300年以上にわたる歴史において、初めて「入移民の国」から「出移民の国」となったのである。ヨーロッパ諸国、米国、カナダにブラジル人は脱出した。日本には、日系ブラジル人が来日し、「デカセギ」元年となった*。

*当初はブラジル移民一世の「Uターン現象」といわれたりしており、「デカセギ」の用語が定着するのは1990年の日本における入管法改定以後のことであり、ブラジルの日本移民とその子孫が就労を目的に来日するようになった年を特定することはできない。日本国籍所有者の日本移民一世に日本での就労に関する制限はないからである。「デカセギ」が注目されるようになるのは、日本国籍を持たない日本人子孫、いわゆる二世、三世の日本での就労の法的扱いが明確にされてからのことである。)

 このようにブラジルと日本の間のヒトの移動を整理してみると、ブラジルへの移住が終了するとともに日本への「デカセギ」が始まっており、両国間のヒトの移動は途切れることなく、その方向がスイッチヒッターのように短期間で交代したにすぎない。日本でもブラジルでも、日本からのブラジル移民はすでに過去のものとなり、20世紀末になって新たなヒトの移動が起こったと考えられてきたが、案外両国は常にヒトの移動によって結ばれてきたのである。

日本移民はサンパウロ移民

当初、ブラジルに赴いた日本移民は厳格には、サンパウロ州移民である。コーヒー価格の下落によって途絶したイタリア移民に代わる労働力としてコーヒー農園に誘致されたのが日本移民であった。
 当時のブラジル共和国憲法は、アジア、アフリカ生まれの者の入国を禁止しており、アジア生まれの者は国会の特別許可をもって入国することができるとしていた。しかも、連邦政府憲法の条項では国家よりも州政府の利益の優先を謳っていた。サンパウロ州は州法を変更して日本移民に対する渡航補助金の交付を可能とし、日本移民導入の道を開いた。コーヒーオリガーキーとして国家権力を牛耳っていたサンパウロ州は、経済的利益を優先させ、ブラジル住民の身体的特徴に配慮を欠いた政策をとったとして他州から反対を受けながらも日本移民の導入に踏み切ったのである。戦前の19万の日本移民の9割以上がサンパウロに導入されたのはこうした結果である。

1907年の日米紳士協定によってハワイ移送出自粛に迫られた日本は、新たな移民の送出先を必要としていた。ハワイ移民からブラジル移民の転向は唐突に行われた。ハワイに行くつもりで神戸の移民収容所についた日本移民の中には、移住先がブラジルのサンパウロのコーヒー農園であることを初めて知らされたものもいる。ブラジルもサンパウロも知らなければ、コーヒーすら知らなかったであろう。第一回移民の送出と引き換えに、日本でのコーヒー販売権を移民送出会社の「皇国殖民会社」が得ているのである。未知の土地に見たことも味わったこともないコーヒー樹の栽培のために、日本人は海を渡ったのである。ほどなく日本移民は、朝食前にコーヒーを飲んでコーヒー農園で働く生活を身につけた。農園で耳にする言葉はポルトガル語やイタリア語である。言葉がわからなくても、日本茶がなくても、生き残るために日本移民はブラジルの新しい習慣に慣れていったのである。

 日本人は「農業の神様」とブラジルで呼ばれる。イタリア移民と並んでブラジルに新しい野菜や果物をもたらしたのは、南米一の農業共同組合を作り上げた日本移民である。アマゾンの日本人移住地に東南アジアからコショウの樹を持ち込み、「黒いダイヤ」と呼ばれる繁栄の時代をもたらし、アマゾンの経済を変えたのは日本人である。熱帯・亜熱帯に位置するブラジルで、身のしまったリンゴの栽培に成功させたのも日本人である。1960年代末に日本からリンゴ栽培の技術者が招聘され、富士リンゴの栽培に成功した。70年代まで、ブラジルではリンゴは、アルゼンチンやヨーロッパから時間をかけて輸入されたもので、すっかり水分が失われており、もっぱら病人用にスプーンですくって食べるものであった。今日では、熱帯地方のスーパーに新鮮な富士リンゴが山のように並べられているし、さらにヨーロッパに輸出もされるようになったのである。ブラジル人にとり、リンゴは輸入果物でも、病人食ではなくなったのである。

19世紀末に日本からフランスに移植され、さらにフランス人がブラジルに移植した日本のカキは渋柿であった。ブラジル人は完熟して崩れそうになったカキが「柿」であるとして、60年代末まで食べていた。 市場(いちば)が立つ日には、完熟した柿を入れる容器を持参して出かけた。当時、ブラジル人にとり柿は「吸って食べる果物」であった。ところがまもなく日本移民は富有柿の栽培に成功させ、今日では完熟した渋柿は姿を消し、市場 (いちば)には立派な富有柿が並べられ、リンゴと同様に「咀嚼」して食べる果物となった。新鮮な蔬菜をブラジル市場にもたらしたのも日本人である。さらに、日本人はヨーロッパに輸出される良質の生糸の生産技術をブラジルにもたらした。

戦後移民二世がサンパウロ市に出て高等教育を受けるようになると、日本人の社会的地位は急速に上昇した。ブラジル全体で1パーセントに及ばない日系人口が、サンパウロ大学の学生の20パーセントを占める時代が70年代に出現したのである。

長い間多文化主義政策をとることはなかったブラジルではあったが、現実は植民地時代以来多文化的状況であった。日本文化はブラジルの知識人に新たな文化として受け入れられ、俳句は「ハイカイ」としてブラジルの新しい詩となり、墨絵から着想を得た新たな絵画や、繊細な日本の陶器に挑戦するブラジル人芸術家が輩出している。

デカセギと日本社会

「デカセギ」がポルトガル語辞典に収録(2005年)され、ポルトガル語になったのはあまりにもよく知られたことである。「デカセギ」帰りのブラジル人とその家族の抱える問題が頻繁に報道されるが、それ以上に「デカセギ」帰りのブラジル人が、日本で得た経験をブラジルで活かしていることは枚挙にいとまない。そうでなければ、20年以上の長きにわたってこの現象が継続しているはずはないのである。さらに、「デカセギ」現象は日本社会に新しい経験をもたらしている。まず、外国人との共生の場が地方都市であったことは、広く日本人に「異文化」体験をさせた。また、「デカセギ」が出現するまで、日本語の「移民」には「出移民」のみが想定されており、ヒトの移動に外国人が来日し、一緒に日常生活をする「入移民」の概念は存在していなかった。今、日本人は、100年前に日本人がブラジルで経験した「入移民」の体験を経験しているのである。さらに、「入移民国」として日本は、緊急問題に直面している。多文化社会となった日本でバイ・リンガル問題を教育制度の整備に迫られているのである。多言語社会を維持してきたカナダは多言語教育を制度として確立しており、かつて植民地を支配したイギリスやフランスは、旧宗主国の言語教育制度を有している。いずれの経験もしてこなかった日本は、グローバル化時代の先進国として言語問題は個人の問題ではなく、社会、国家の問題として責任を果たさなければならない。そこから日本とブラジルを経験した新しい人材が育ち、将来どのような活躍をするのか楽しみである。

 ゆっくりと、しかし確実に両国の文化、社会の変化をヒトの移動がもたらしつつある。ヒトの移動は人類が発祥したときから始まり、常に文化は変化をしてきた。ヒトの移動とともに文化は変容するダイナミックなものなのである。今21世紀の始まりに、われわれは、日本とブラジルのこのダイナミックな文化変容に参加しているのである。