会報『ブラジル特報』 2013年9月号掲載
文化評論

                              岸和田 仁 (『ブラジル特報』編集委員、在レシーフェ)


 1995年から2002年まで大統領を務めたF・H・カルドーゾは1930年生まれだから、現在82歳だ。日本的にいえば、後期高齢者の老人となるが、政治家としても社会学者としても現役で活躍している知識人である。
 まず、6月27日、「ブラジル文学アカデミー」の新会員に選出された。このアカデミー会員になれるのは、文学者に限定されず、ろくな文学的成果がなくても現実的政治力でメンバーになったものも少なくないので、この辺は日本の勲章受章者と似ているが、今回のカルドーゾは政治家としてでなく社会学者としての業績が評価されたからだろう。元大統領で文学アカデミー会員になったのは、ジェツリオ・ヴァルガスとジョゼ・サルネイに次いで3人目となるが、演説集を除けばアカデミックな業績がゼロ(サルネイは一応詩人だが)の前任者たちとは大いに異なる。当然ながら、マスメディアも大きく報道していた。

 このニュースとほぼ同時期に刊行されたのが、最新著書『ブラジルを創出した思想家たち』である。ノンフィクション部門のベストセラー順位としてはでは3位ないし4位を数週間キープしており、お堅い社会科学本としては売れ筋となっている。
 今回は、この本を読みながら、社会学者カルドーゾの“凄さ”を再確認してみたい。
 取り上げられている思想家は全部で10名、すなわちジョアキン・ナブーコ(帝政期の政治家・作家)、エウクリデス・ダ・クーニャ(軍人・作家)、パウロ・プラード(実業家・作家)、ジルベルト・フレイレ(社会人類学者)、セルジオ・ブアルケ・デ・オランダ(歴史学者)、カイオ・プラード・ジュニオール(経済史学者)、アントニオ・カンディード(文芸批評家)、フロレスタン・フェルナンデス(社会学者)、セルソ・フルタード(経済学者)、ライムンド・ファオロ(政治学者)、であり、彼らに関するエッセイ・論文が全部で18編所収されている。
 大別すると、雑誌『セニョール』向けに1978年に書かれた評伝が主体で、文学フェスタなどで行った講演(2010年)や、今回書下ろし(ファオロ論)を追加している。最終章はリオブランコ外交官養成学校の学生向け講演(1993年)であり、最近といっても35年間の時間軸を包摂するエッセイ集、というのが今回の著書である。

 ナブーコ論は、政治家としてのナブーコを検討してから、外交官としての業績をフォローしていくが、1881年の選挙に敗北したことで、ロンドンに一時引きこもり、大英博物館の図書館に通い詰めたことで奴隷制への理論的批判を深化し、その結果、名著『奴隷制廃止論』が生まれた、といったエピソードも交えながら、ナブーコの同時代人性を明らかにしている。カヌードス戦争という19世紀末バイーア奥地で展開された千年王国運動とその悲劇的結末を取材・記録したエウクリデス・ダ・クーニャのブラジル人論への貢献も社会学者的に整理している。
 サンパウロ学派の人たちとは、公私を超えた深い関係があるため(フロレスタン・フェルナンデスは社会学の指導教官、アントニオ・カンディードは恩師の一人、セルジオ・ブアルケはカルドーゾの博士論文の審査委員の一人)、それぞれとの個人的なエピソードもたっぷり語りながら、アカデミズムにおける業績を社会学的に整理・分析しているので、一番力が入っているところだ。が、評者の如く、この辺のお話しを知っている人間には、あまり刺激的でない。

 評者にとって一番面白かったのは、ジルベルト・フレイレに関する叙述である。
 かつてマルクス主義社会学の視点から、軍政に協力的であったフレイレを“反動的”として批判し、彼の唱える「人種デモクラシー」は虚構に過ぎず、集めたデータから引き出された仮説は科学的でないと強烈に否定していたが、そうした「若き、戦闘的社会学者の視点」ではなく、成熟した学者として読み返すと、フレイレの古典的作品の素晴らしさを再認識する、といった調子だ。
 「日常的生活、ファミリー、食文化、性生活といった、従来ブラジルのアカデミズムが扱わず、彼らの視野に入っていなかった局面を、ブラジル研究の世界に導入した」のがフレイレであり、その論理展開は弁証法的ではないが両義的であり、それが神話を形成することになる、といった手放しに近い評価を述べている。 


 ただ、文体は晦渋な学術論文調であり、フツーの読者はいささかシンドイ読書を強要されることになる。
 カルドーゾが大統領であった時期、米国人政治学者テッド・ゲールツェルは「カルドーゾはマルクス経済学は時代遅れとして放棄したが、社会学者としてのマルクス、応用知識哲学者としてのマルクスは依然として有用であると考えた」のであるから、「一国の指導者としてはレーニン以降では最も傑出したマルクス主義者の学者である」と評したが、評者はこの指摘を思い出してしまった次第だ。