会報『ブラジル特報』 2012年9月号掲載
文化評論


                                    岸和田 仁 (協会顧問・編集委員、在レシーフェ)


 フランス人が書き残したブラジル論やブラジル紀行は16世紀ごろから数多く行われてきたが、一番有名なのはレヴィ=ストロースの 『悲しき熱帯』 だろうか。この人類学的エッセイは別格としても、R・バスティードの 『ブラジル-コントラストの国』、ピエール・ベルジェルのブラジル黒人アフリカ帰還研究書、あるいは1960年サルトルとともにブラジルに2か月ほど旅行したボーヴォアールの辛辣かつ寛容なブラジル紀行、など、筆者が思いつくだけでもいくつもあげられる。

 そんなフランス百科全書の知的伝統を受け継ぐ国の外交官が書いた、ノルデスチ(ブラジル東北部)論(のポルトガル語版)が最近話題になっているので、今回はこの紹介をしてみたい。
 タイトルは 『ノルデスチのブラジル-豊饒な文化と社会的格差』、著者はパトリック・ホウレット・マルタン。前レシーフェ総領事である。話題を呼んでいるのは、資料や文献を調査してうえで書かれた内容の濃さもさることながら、序文をフェルナド・エンリッケ・カルドーゾ元大統領が書いているからだ。しかも 「ブラジルのノルデスチに関して、これほどまで広範囲に亘った最新情報が正確に集積されている本は、他に知らない。(書かれている)テーマは、国際協力から各州のこまごました政治実態やら重要な経済情報まで、広範だ。だが、私をもっとも満足させている部分は社会問題に関して実に深く掘り下げて書かれているところだ。教育とか(公衆)衛生とかの従来から議論されているものはもちろん、性観光、売春、人種差別といった、あまり議論されていなかったテーマにまで踏み込んでいる。」 と、矢鱈と褒めすぎの序文だ。
 さらに本の前扉と後扉に掲載された“推薦の言葉”を書いているのは、アエシオ・ネヴェス上院議員(前ミナス州知事)で、「新生ノルデスチの発展なしでは、新生ブラジルはあり得ない」が、友人でもあるフランス外交官の本は素晴らしい、と“ちょうちん評”だ。ブラジル政界の大物二名はいずれもPSDB(ブジル社会民主党)なので、政治背景など勘ぐる向きもあるかもしれないが、それは無視してよい、といえるほどの内容を本書は持っている。だからこそ、読書界で話題になっているのだろう。

 ノルデスチという呼称が使われるようになったのは1941年から、と最近のことだが、現在のノルデスチという地域呼称の定義を歴史的に復習するところから筆を起こしているのは、いかにも哲学の国フランスらしい。この本の構成は、第一部が、政治、社会諸問題、経済活動、文化概観、国際協力、の各章が書き込まれ、第二部は、各州に関するミニ百科事典となっているが、その文章(原文はフランス語だが)がなんとも、実利的ながら文学的な文体で書かれているのが、カルドーゾのようなインテリが惹かれる所以だろう。
 ペルナンブーコ連邦大学の教授陣の10%がフランスの大学・大学院を卒業している、とか、フランスの貢献、フランス外交の成果について叙述しているのは、総領事館から本省への報告レポートからの“流用”であろうが、この著書が優れているのは、まさに社会学者カルドーゾの指摘するように、社会問題に切り込んでいることだろう。都市暴力や治安問題では、住民10万人に対して年間何人が殺人事件で命を失うか、という国際指標などのデータをうまく処理しながら、大都市における治安が若干良くなってきていることを詳述しているが、国是であるはずの人種デモクラシーについては、はっきりと疑問符を投げかけている。
 人種差別という章を設け、非識字者の内訳をみれば、バイーア州の場合、黒人がその80%を占めている、とか、2003年のデータでは、ブラジル全体で大学卒業者のうち黒人が占める割合はたったの2%にすぎなかった、とか、ノルデスチ社会の上流金持ち層では人種混淆はほとんどみられず、政界、公務員、軍人、企業といったところの指導層には黒人はまずいない、といった現実を明示している。ノルデスチ出身の作家や音楽家(の歌詞)からの引用も自然に行われており、著者がブラジル関連の文献資料を相当読み込んでいることが読者にも伝わってくる。
 世界史を動かしてきたフランス外交が、文化外交に力を入れ、そのためにヒトもカネもつぎ込んでいるのは有名であるが、この前在レシーフェ・フランス総領事の知的営為もそうしたフランス文化外交の水脈の一支流 (いや本流?) を構成している、といってよいかもしれない。