会報『ブラジル特報』 2012年7月号掲載
文化評論

                                    岸和田 仁(協会理事)


 終戦直後の在ブラジル日系社会を揺るがした「カチマケ抗争」を描いたブラジル映画『汚れた心』が7月に日本一般公開されるが、図らずも同じ7月の末に「カチ組」の代表的広報月刊誌『輝号』の部分復刻版が不二出版から刊行される。ひょんなことから、この仲介役として関与したばかりか、要請を受けたため解説を書くことになった筆者としては、“義務として”これらが意味するところを考えざるをえない。

 まず、「カチ組」とは何であったのか、を超急ぎ足で復習しておこう。1928年から1935年までにブラジルに入国した移民の数は10万を超え、戦前移民の70%以上を占めたが、彼らは皇国史観教育を受けた国粋主義日本人として、当時のブラジル政府の同化政策(日本語教育禁止、邦字新聞廃刊など)に反発し、世界から孤立させられた。その果、敗戦を認めることは出来ず、無条件降伏はデマ情報で日本は戦争に勝ったと「確信」し、「カチ組」を構成するようになる。ポルトガル語を理解し、敗戦を冷静に認識できたインテリ・指導層「マケ組」は、日系社会全体の1割程度の少数派であった。「カチ組」の過激分子が“トッコウタイ”となって「マケ組=国賊」をテロ襲撃したのが、1946年から47年初頭までだが、その傷害・暗殺の被害者は100余名に及んだ。
 「カチ組」を代表した臣道聯盟の創立は1945年7月で、解散宣言は1947年2月であったが、歴史人類学の視点からいえば、1945年から47年までが「カチ組」の「顕在化時期」で、1948年から56年頃までが「潜在化時期」とみることが出来る。

 在ブラジル日系社会の歴史における“暗黒時代”であったが、「カチ組」運動は決して狂信者の集団ではなく、社会人類学でいう「千年王国運動」ないし「メシア主義的な回生運動」であった、というのがアカデミズムの定説になってきている。こうした「カチ組」のメディアとしては、新聞では6 千部の発行部数があった『昭和新聞』(発行期間:1949年~54年、週二回から三回)が一番影響力を有したが、月刊誌では『輝号』が発行期間(1949年3月~53年2月)の長さでも発行部数(推定4~5千部)の面でも代表的であった。(『光輝』、『至誠』、『民草』、『青年』、『旭号』などの雑誌は、いずれも短期間で終わっている。)
 当時の二世を含む日本語識字人口は15万程度であろうから、数千部を現代日本に仮想的換算すれば、200万部相当となる。すなわち、ミニでなくマスマディアといってよい。(ちなみに、「マケ組」を代表した『パウリスタ新聞』は1947年の創刊時は、4,500部からスタートしている。)
 
 以上、乱暴に要約して歴史的・社会的背景をメモしてみたが、「復刻版『輝号』」を手にすれば、「我々が信念する神国不敗の理念」、「聖戦、八紘一宇の精神」といった文言の連発に戸惑うかもしれない。終刊から60年の年月が経過した現在問われるべきは、この「カチ組」広報誌に掲載された記事群の主張が正しいか、間違っているか、ではなく、社会史的文脈の観点からのテキスト再読、史料的価値の再評価がなされるべきだ、と筆者は考えるものである。この場合の社会史とは、日本のではなくブラジルのそれであり、あくまでもブラジル史の一つのプロセスとして「カチ組」が再解釈されるべきであろう。

 ところで、今回ユーロスペースほか全国でロードショー公開されるブラジル映画『汚れた心』は、余計な解釈を加えれば、ブラジルの多元文化主義を如実に象徴する映画であるが、そうした“邪念”なしでも感動を観客に与える「いい映画」である。フェルナンド・モラエスの原作は、「カチ組」についての緻密な取材・調査をふまえた、重厚なノンフィクション作品であるが、この映画は原作で書かれた歴史的事実をベースにしているとはいえ、まったくのフィクション歴史ドラマである。

 奥田瑛二演じる「カチ組」指導者の指令に基づいて「マケ組= 国賊」を何人も殺害するが、結局のところ自責の念に悩むサムライ(伊原剛志が好演)を映像化するといういささかハリウッド的な筋立ては、「カチ組」運動の本来の姿を歪めるものだ、という見方もあるかもしれない。

 だが、長い間、日系社会においてタブー化されていた「カチマケ抗争」が再認識されるようになったのは、この原作と映画のおかげであり、文字による伝達力とは別のレベルでのヴィジュアル・パワーは素直に評価されるべきだろう。とまれ、この機会に「カチ組」運動に関する誤った理解・認識(「狂信的愚民集団」という断定)が是正されることを、望む次第である。