会報『ブラジル特報』 2012年3月号掲載

                                                深沢 正雪 (ニッケイ新聞編集長)



評論家の大宅壮一は1954年に取材旅行のためにブラジルに来た際、「明治の日本が見たければブラジルにいけ!」との名セリフを残したとコロニアではいい伝えられている。当地に色濃くつづく明治気質を端的に指摘した言葉として、日系社会では有名だ。おなじ時に大宅壮一は、アマゾンのトメアスー移住地を訪れて「下士官根性がある」と発言して邦字紙で物議を醸しており、戦前の軍国主義的な気質を揶揄するニュアンスでいわれたものが、時代の変化とともに「日本が失ったものがコロニアにはある」との誇るような語感に変わってきたのではないかと思っていた。

 南米に強いジャーナリストで、昨年5月に『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所)を刊行して話題になった三山喬さんから以前、「このセリフの出元を調べようと思って大宅壮一文庫で探した。司書にも相談したが、ついに見つからなかった。おかしなことにそれを日本で言った形跡がない」と聞いて以来、“コロニア七不思議”の一つだと思っていた。内容からして日本で大宅壮一がそう広めた感じがするし、日本人移民をいい表した祖国の著名人の言葉としてスバ抜けた知名度があると当地では思われ、ニッケイ新聞の投稿欄でもひんぱんに引用されていたから、三山さんが残した謎はずっと頭に引っかかっていた。

 だから当地の雑誌『曠野の星』(岸本丘陽主幹)1954年12月号を昨年パラパラとみていて、大宅壮一の講演内容を見つけたときは小躍りした。正確には「ブラジルの日本人間には、日本の明治大正時代が、そのまま残っている。明治大正時代がみたければブラジルに観光旅行するがよいと、日本に帰ったら言う積もりです」といっていた。これはコロニア相手に講演して笑い話をとる部分であり、意外なことに肯定的といってよいニュアンスを持って使われていた。
 さらに大宅壮一は、勝ち負け抗争のことを「日本ではとても考えられない奇々怪々なる事件」と表現し、その原因を明らかにするためにブラジルまで取材に来たと説明し、「明治大正の気質」が当地に残っていることが関係していると指摘している。当時の日本マスコミの大半は、勝ち負け抗争の表面的な事象だけを遠くからみて、ブラジル邦人の頭の切り替えの遅さ、その在り方の特殊性をあざ笑ったが、大宅壮一は実際にブラジルまで来た上で「ブラジルらしい事件」だと論じていたことに舌を巻いた。

<件の名セリフが入った『曠野の星』部分 1954年12月(27号)10頁>

ブラジル移民の団塊世代 
 何が「ブラジルらしい」かを論じるほど博識を持ち合わせていないのが残念だが、各国移民が国家形成に深く関与していることは間違いない。さらに、どこの国からの移住にも人数変動の「波」があり、その変動の原因は戦争や天災などの場合が多いようだ。この「波」の最大時に移住した人々を「移民の団塊世代」と呼んでいる。

 例えば、日本人移民の場合は、第一次大戦、関東大震災、昭和大恐慌という社会状況に流されて、日本社会の最も苦境に置かれた層が押し出されて当地に向かった。1924年に米国で排日法が施行され、その翌年から日本政府がブラジルへの渡航費全額補助を決めたことが強く影響する。だから 1926年から、ブラジル政府が日本移民の入国制限を意図した二分制限法が1934年に施行された翌年の1935年までの10年間に、なんと約13万人が入国している。戦前戦後を通じた全25万人の過半数がこの10年間に集中した“大波”だ。この「団塊世代」の家長が30歳前後だったとすれば、彼らは 1890年代後半から日露戦争ぐらいのまでの間に10代の人格形成期を過ごしている。明治後期の日本人気質の深く刻み込まれた集団が、サンパウロ州の地方の日本人ばかりが集まった植民地において生活し、ブラジル政府から敵性国民として強い政治的社会的圧力をかけられた状態で「日本人」としての自覚を深める10数年を過ごした結果、日本の日本人以上に日本人らしい二世を育て上げたことは不思議ではない。
 一方、祖国ではGHQによる占領政策という大鉈が振られ、戦前的な精神が分断され、いわゆる戦後民主主義的な気風が満たされた。そこからきた大宅壮一が、戦前の気風をぷんぷんさせたコロニアとの間に感じたギャップたるや驚くべきものがあっただろう。

ブラジルには「明治の沖縄」がある
 大宅壮一の講演内容で俊逸なのは「大体に、ブラジルに来ている人種は、欧州でも、一風変わった地域で、最も封建的な気風の強い国から来ていることが分かりました。(中略)現在のブラジルには欧州の中世紀が残っているということになり、欧州人で中世紀がみたければ、ブラジルに観光旅行するがよい、と言うことになります。ブラジルを旅行してみて、私は、欧州の中世紀を残すに適した国であると思い、日本の明治の残っているのも不思議ではないと思いました」と語っていることだ。
 ブラジルがある意味で、旧世界の裏返しであることを1954年の時点でいい当てている。中世の封建的な社会構造の中で低位におかれ、つねに貧困や社会的な差別に苦しんでいた層だから、天災や戦争、飢饉などの大規模変動に際して最初に生死の境をさまよい、新天地を目指さざるを得なかった。旧世界の社会的な弱者が逃げ込む「避難所」として、ブラジルは世界史的に機能してきた。そんな層がまっさきに、大量に移住して地歩を築いた。だから「中世」や「明治」がブラジルには残っているのではないか。「避難所」「旧世界を裏返した縮図」が、ここ10年ほど「世界の成長センタ—」、いい方を変えれば「表」として見られるようになった。これは後世からすれば歴史的な節目と見られることかもしれない。
 2008年3月、ドイツ最大手週刊誌「スピーゲル」はサンタカタリーナ州ポメローデ市には「ドイツよりもドイツらしさが残っている」と賞賛し、本国では失われたポメローデ語(ドイツ語方言)までが残っていると報じた。ドイツもまた「失われた中世」をブラジルのコミュニティに見出している。

<「世界のウチナーンチュ大会」 閉会式 (2011年10月16日夜、那覇市)>

 昨年10月に沖縄県で開催された、世界中の沖縄系子孫が5年に一度集まる「世界のウチナーンチュ大会」に参加したが、ここでも地元県民から「ブラジルには“明治の沖縄”がある」と度々いわれて驚いた。沖縄の人口は日本のわずか1%強なのに海外日系社会の16%を占めるのは、近代日本の歴史的なヒズミがこの島に集中していたことの裏返しだ。ちょうど40年前に実現された本土復帰運動を盛り上げる過程で、独自の方言や伝統を忘れ去って必死に“日本人”になろうとした沖縄県人の戦後世代からすると、今も沖縄方言を残す一部のブラジル子孫には「明治の沖縄がある」ようにみえるらしい。海外子孫と県民が手を取り合って琉球の伝統を復古させようとする「遠隔地ナショナリズム」的な同大会の方向性が、今後の日本の政治状況にどんな影響をもたらすのか。非常に興味深い。