会報『ブラジル特報』 2011年7月号掲載
文化評論

                                           岸和田 仁(協会理事)


サンバといえばリオかバイーアであり、サンパウロは偏見をこめて“サンバの砂漠地帯”といわれていたが、そんなサンパウロ・サンバ界も多くの逸材を輩出してきた。今や重鎮となったパウロ・ヴァンゾリーニもその一人だが、彼の最近の動静が、週刊誌『エポカ』(2011年5月 2日号)の特集記事(全4ページ)で詳しく報じられていたので、今回は現在87歳の“インテリ老ボヘミアン”の生き様にあらためて思いをはせてみたい。

 まず、彼のルーツ。名前からイタリア系であることは明白だが、イタリア貴族の血筋を引いている。19世紀末パラナ州パルメイラに“無政府共産ユートピア”を試みた「コロニア・セシリア」村を開墾したイタリア人アナーキストたちの一人が彼の曽祖父だが、貴族の地位を捨ててブラジルでの理想郷を夢見たのであった。だが、その孫、すなわちパウロの父親はブラジル版ファシストのインテグラリスタであったから、左へいったり右へいったり、政治に熱くなるのがファミリーの伝統なのだろう。もっともパウロ自身はカルドーゾ元大統領の熱心な支持者で、ルーラ前大統領には一回も票を投じたことはない由だ。

 そんなイタリア系4世として1924年にサンパウロで生まれた彼は終生リベラル左翼の立場を維持することになるが、政治の世界には行かず、サンパウロ大学で医学を修めたあと米国へ留学、ハーヴァード大学で動物学の博士号を取得する。専門はトカゲ類の研究で、アマゾン地方でのフィールドを通じた実証的研究は1 5 0もの学術論文を産み出し、サンパウロ大学教授として数十人もの教え子たちの博士論文を審査した、というまったくのアカデミックな自然科学者としての活躍を表の顔とすれば、70曲におよぶ作曲活動を展開したサンビスタ(サンバ奏者)はもう一つの顔である。本人の言によれば、「オレはまず科学者だ。音楽はあとから来たんだ」となるが、二足の草鞋を自然体で履き続けた、といえよう。

 音楽、なかんずくサンバに魅せられたのは少年時代というパウロが、シンガー・ソングライターとして活躍し始めるのは医学生の頃、1940年代からだが、サンバ・カンサゥン(歌謡サンバ) の名曲と呼ばれる「ロンダ( 輪舞)」を彼が作曲したのは45年である。米国留学中は本場のジャズ関係者と交流してミュージシャンとしての技量を磨いたが、帰国後はT V音楽番組の制作にも協力していく。彼の代表曲「ヴォルタ・ポル・シーマ」は62年にリリースされるや、たちまち全国でヒットし、シコ・ブアルケはじめ多くのミュージシャンによって歌われただけでなく、グラウベル・ローシャ監督の代表映画「アントニオ・ダス・モルテス( 悪しき龍と聖騎士)」( 1 9 6 9年)でも採用されることになる。 6 9年、トッキーニョとのコラボレーションで「ボーボ」を発表、さらに1 9 7 4年には二人の共同作品として三曲「ボッカ・ダ・ノイチ」「ノ・フィン・ナゥン・シ・ペルヂ・ナーダ」「ノイチ・ロンガ」をリリースした。その後発表された「プラッサ・クローヴィス」や「サンバ・エルディト」などはシコやパウリーニョ・ダ・ヴィオラらによっても歌われ、50年代から90年代まで現役のサンビスタとして活躍の場を広げていた。( 実際のところは、徹夜で音楽活動を展開し、アルコールも抜けないまま翌朝大学に直行したこともしばしばだったため、教授会でも“ヴァンゾリーニ教授の素行不良”が問題になったこともあったようだ。)

 こうして二人分以上の仕事をこなした超濃厚人生も、大学の定年にあわせて修正・仕切り直しすることに。まず貴重な蔵書をすべて大学図書館に寄贈、さらに高級住宅街ジャルディンス地区にあった邸宅も家族も“放置”して、労働者街といえるカンブシ地区の小さな家へ移動、奥さんも28歳下のアナ夫人と再婚する。この自由なボヘミアン的な第二の人生という道を選択した時は、さすがに友人たちからも非難されたのであった。ノエル・ホーザを崇拝しシェークスピアを今でも愛読する老インテリ・サンビスタは、今でも毎週金曜夜は、大衆音楽酒場「バール・ド・フィレ」でマイクを握り仲間たちとサンバを楽しんでいる。とはいえ、心不全を患ったこともあり、昨今は大好きな葉巻もストップし、お酒もカシャサからビールに切り替えた由だが。ヴァンゾリーニ老師のご健勝とさらなるご活躍を祈念している。