会報『ブラジル特報』 2011年5月号掲載
文化評論

                               岸和田 仁(協会理事)


 2003年に「ブラジル文学アカデミー」会員に選出されたことで、保守的な中央文壇でも認知されたモアシル・シクリアールは、大都市の中産階層や在ブラジル・ユダヤ社会を主なテーマとして書き続けた作家であるが、2月27日、ポルトアレグレで急死した。享年73歳。現代ブラジル文学の旗手とみなされていただけに、その死を惜しむ声が、ブラジル国内ばかり海外各地からも寄せられている。
 リオグランデ・ド・スール州政府保健局のキャリア(保健教育課長、公衆衛生部長)として公衆衛生の現場にかかわる医者でありながら、並行して作家活動も継続するという“二足のわらじ”をはき続けたシクリアールが最初の著書『研修医の物語』を上梓したのは1962年、25歳のときだが、彼の実質的な文学的出発は、小話集『動物のカーニバル』(1968年)と最初の長編小説『ボンフィン戦争』(1972年)を発表した1970年前後、といってよい。
 小説、エッセイ、小話集など80冊を超える著作を発表しているが、主要作品は、英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語、スペイン語、チェコ語、ノルウェー語、ヘブライ語などに翻訳されており、代表作『庭園のケンタウロス』(1980年)は、在米「ナショナル・イディッシュ・ブック・センター」が選定した“過去200年間に発刊されたユダヤ史関連著書で最良の100冊”の一冊に選ばれている。すなわち、ポルトガル語で著述活動を行ったブラジル文学者シクリアールは、20世紀の世界文学を豊穣なものにしたユダヤ系作家たち、ドイツ語圏ならカフカ、カネッティ、ロシア語圏ならバーベリ、エーレンブルグ、英語圏ならソール・ベロウ、マラマッド、フィリップ・ロス、サリンジャー、といった系譜に連なっているといえるだろう。

 彼自身の医学研究の集大成として2002年に書き上げた医学博士論文のタイトルが「聖書から精神分析へ:ユダヤ文化における健康、病気と医学」であることをみてもわかるように、ブラジル人アイデンティティとユダヤ性の間で煩悶しつつも「ユダヤ人であること」に真正面から取り組んだ知識人であった。
 1920年代ロシア(ルーマニア隣接地帯)からブラジル南部内陸部に入植したユダヤ人移民の二世として1937年3月23日生まれたシクリアールは、イディッシュ語とシナゴーグ(ユダヤ教会)に象徴されるアシュケナージ系ユダヤ文化に心身ともに染められた少年時代を過ごし、シオニズムと社会主義との間で揺れ動く「ユダヤ青年運動」に挺身するという学生時代をへて、医学部を卒業する。ちなみに叔父の一人は熱心な共産党員であり、こうした社会的・家族的背景が彼の文学世界のベースとなっていく。
 ここで筆者の私的回想を若干してみたい。今までシクリアールの著作は数冊しか読んでいない筆者が彼の文章を初めて読んだのは、確か1993年のことだった。というのも、その年ベストセラーとなった話題作E・ラルグマン『若きポラッカ』(ポラッカ=ポーランド女から転じて白人娼婦の意)を読んだのだが、そのはしがきを彼が書いていたからだ。

 ラルグマンの作品は、20世紀初頭から1930年代にかけて、ポーランドなど東欧から多くのユダヤ系女性を性奴隷としてブラジルやアルゼンチンの“闇市場”へ人身売買したのが、ユダヤ系マフィア組織であった、という歴史的事実に基づいた小説であるが、はしがきで、シクリアールが医者になって間もない時、ユダヤ・コミュニティー養老院で仲間から孤立する“元ポラッカ”に出会ったと述べている。彼自身、関連資料を読み込んだうえで、このテーマで『水の回流』(1975年)という小説を書き上げているからだが、彼にとって“ポラッカ”は重いテーマであり続けた。

 彼の作品で邦訳されたものは一冊もないため、シクリアールは日本ではまったく知られておらず、誠に残念なことだ。筆者が知る限りでは、西成彦立命館大学教授が2006年に発表した論文「ブラジルと日本語文学」(『国文学 解釈と鑑賞』2006年7月号所収)において、ブラジルのマイノリティ文学の旗手として紹介しているのが、日本語によるほとんど唯一の言及であろう。比較文学者の西教授は、「ブラジルの日系文学をふりかえるにあたって、ブラジルの日系人社会はいまだにスクリアールに相当する大物作家を産み出すにはいたっていないことを、まず指摘しておく」と“挑発”したうえで、ブラジルにおけるユダヤ系文学の推移と日系文学のそれとを比較しているが、この指摘は実に示唆的である。