会報『ブラジル特報』 2010年7月号掲載
在日ブラジル商業会議所会員企業の紹介(第4回)

                 株式会社イマイ 取締役会長 今井 悦太


1953年(昭和28年)3月、故前会長今井政市と現会長の私(今井悦太)および社員1名の計3名で(有)イマイ商店を東京都千代田区九段下の借家で設立した。資本金は100万円で業種は貿易会社である。戦後8年ゆえ東京の中心地であるが周囲は全て空襲で焼き払われ木造のバラックが並んでいるのみで、近くに焼け残ったビルが2棟あったのを記憶している。机2台と英文タイプライター1台および電話1本で、電話が30万円弱で一番の出費であった。

 当時の為替は1ドルが360円の固定相場でプレミアム付相場は400円前後が普通であった。イマイ商店の最初の仕事は前会長のコネでブラジル向け日本語出版物の輸出で、雑誌書籍を3kgの小包郵便にし、船便で出荷した。月2回の出荷で毎月2,000包前後であり、一般出版物は文化財として優遇された。大戦中は敵国である日本語の会話はもちろん出版物も禁じられ、日系人は日本語活字に飢えていたため毎月5,000ドル(180万円)以上の輸出額となり、粗利は15%程度であったが、当時の家賃、3名の給料の採算は充分取れた。小包での出荷は2年余りで木箱梱包に変わり、数年後はダンボール箱に変更される。

 その後、サンパウロで前会長の実弟である今井繁義氏がS.IMAI LTDA.なる、主として農業機械の輸入会社を設立して日本からの輸出を引き受けた。また別会社でSOCIEDADE IMPORTADORA TOKYO S.A.を設立するにおよび、一般食品、酒類、釣具や陶器一般雑貨に至るまで買い付け輸出をするようになった。一方、S.IMAI LTDA.は、ブラジル政府の国策に従って農業機械の国産化に乗り出し日本企業の技術指導のもと小型2サイクルエンジンの製造に成功するとともに、チェーンソー、噴霧器などブラジルの農園が求める大型機械の生産を始め、ピーク時には1,500名の従業員を抱えるHATSUTA DO BRASIL S.A.となる。

 さらにEMPILHADEIRA TOYOTA S/Aを設立し、SANTOS等港湾向け大型フォークリフトやクレーン等の入札に参加し、日本製機械を輸出した時代へ進んだ。しかしブラジル政府の外貨事情悪化にともない、輸入関税の引き上げさらに輸入ライセンスのストップ等あらゆる方法で輸入を抑えることとなる。一般商品の輸出は困難となり、当時輸出で発展し組織変更にて(株)イマイとなっていた当社も180度の転換をせざるを得なくなった。当初は誰でも手軽に扱える雑貨、民芸品関係から輸入を始めたが、イマイがブラジルを中心とした南米からの輸入の本命として考えていたのは、何れ到来するであろう世界的な食品の不足であった。特に狭い国土の日本は他国からの輸入に頼ることになり反面広い国土を有し、生産すればいくらでもできる南米の農作物、加工食品に的を絞り、1970年頃から調査を始め試験的な輸入販売をしていたのが開花することになる。

 以前は賞味期限の短い食品は遠隔地からの貿易商品とは考えられない品が、海上輸送や空輸も加えて冷蔵冷凍コンテナの導入や保存料、添加物、パッケージの技術の進歩により色々な加工食品の輸出入も地球の裏からも容易になったことにも助けられた。日本円は自由相場となり、ピーク時は1ドル80円を切るまで高くなって100円前後で推移し、イマイに新しいビジネスチャンスが来る。

 1985年頃から円高による日系人の大挙しての来日、ピーク時には登録者のみで33万人を超える。在日日系人向けの小売店やレストランも増え当社の輸入販売も彼ら無形の宣伝、後押しもあり順調に延びて来た。その輸入食品の中で日本市場向けとして力を入れた菓子類(ビスケット、チョコレートなど)も徐々に認められ大手量販店、コンビニの棚にも並べられることになる。

 ただ振り返れば、食品の輸入は当初から順調であった訳では無い。輸入した缶詰には膨張缶、錆缶、ペコ缶、中には爆発した缶詰もあり、フルーツジャム等は梱包不良で船倉がジャムだらけになり、クレームで後始末が大変だったことも記憶にある。当時は、賞味期限、食品添加物表示の指導も厳しくなく、メーカーの責任者も「食して問題無ければ良品」との考えは多かったと思える。

 国によって食文化の違いもあり、我々がメーカーに対して日本の食品に対する考え、法令、規制を申し立てると、「日本人は何故その様にうるさいのか!?」と喧嘩になることもあり、その時には「日本は世界中で一番食品に対する規制が厳しく、逆を申せば日本に輸出が出来る企業はどの国に対しても問題なく輸出できる品質証明となる!」と口説いたこともある。

現在、当社は日本における輸入代理権を有する外国メーカーは35社を超えるが、当初より情報交換を大切に考え定期的な訪問、特に金銭的なトラブルが無いよう気を付けて取引をしてきたお陰で、各メーカーのパートナーとして信頼できる仲になり、お互いに他の企業を紹介、またはしてもらうまで成長した。

 しかし、2008年後半よりのリーマンショックに始まる不況で、日本企業のリストラにより契約社員であった多くの日系人が職を失い、20%以上のブラジル帰国者が出たとの報道があった。したがって日系人相手の小売店、レストランの閉鎖、倒産が相次ぎ、この業界にも不況の波が押し寄せてきた。当社も輸入を始めて25年以上の右肩上がりの業績で手を広げてきたが、今回の不況で一度立ち止まり、日系人とともに原点に戻りあらためて再出発し、商品の再構成と破壊された流通価格の立て直しを図ることが必要となる。

   また我々専門業者以外に乱立した輸入業者の並行輸入や価格破壊もかなり淘汰される筈で、良い商品を適正価格で販売出来るようにもっていくことを目標としている。

種類が豊富な取扱商品

 今一度、イマイの歴史を振り返ると、故会長今井政市は20歳で結婚し、1921年に移民としてブラジルに渡り苦労の末農園で成功する。奥地のためすべて自給自足は納得するが、病院、学校も無く特に子供の教育に困り、一時サンパウロより日本語の先生を植民地の有志で招聘し、コーヒー園の中に開校したが続かず、帰国を決心した。

 私(今井悦太)は9歳で母兄妹とともに帰国し、大戦中は学徒動員で鍛えられ、1953年に大学3年在学中に故会長と会社を設立した。現社長(今井譲治)は日本で生まれ11歳の時にブラジルに渡り、学業はすべてサンパウロで終え、22歳で帰国しイマイに入社し現在に至っている。

 設立当初はブラジルに渡った日本移民のため故郷日本の味を輸出し、現在は来日した日系人の方達にブラジルをはじめ南米、ラテンアメリカの味を届けており、親子三代に渡ってブラジル関係に世話になっている訳で、日本ブラジル両国に対し恩返しをする宿命を背負っていることになる。

 最後に故会長今井政市が、会社引退時に自筆してくれた社是を披露しておきたい。

 一、利潤なきところに繁栄無し。

 一、開発なきところに発展無し。

 一、協調なきところに幸福無し。

 この社是は現在もイマイの本社および各事業所に揚げられ、朝礼の折斉唱されており、FOODEX等で来社された海外のメーカーや経営者の方にも好評である。