会報『ブラジル特報』 2014年3月号掲載       
深沢 正雪 <spanstyle=’font-size:10.5pt;font-family:”MS Pゴシック”;mso-bidi-font-family:”Times New Roman”;mso-ansi-language:EN-US;mso-fareast-language:JA;mso-bidi-language:AR-SA’>(ニッケイ新聞編集長)



 民主化後のブラジルにとって、軍政時代に発生した人権侵害の取り扱いが懸案事項となってきた。中でも自らが逮捕され拷問を受けた経験を有するルセーフ現大統領は20125月に 「真実委員会」 を立ち上げ、サンパウロなど主要州に設置した小委員会において審議が重ねられてきている。その関連で、第二次世界大戦中および戦後の日系人に対する人種差別的な取り扱いがサンパウロ小委員会の公聴会で取り上げられ謝罪に至る展開となっている。本件を現地で取材してきたニッケイ新聞の深沢正雪編集長に経緯と背景を寄稿していただいた。
(編集部)
 

モラエス著作への反発
 「日本移民の死と拷問」 問題を真実委員会に働きかけてきたのは映像メディア会社 『Imagens do Japão』 (IMJ) の共同経営者、奥原マリオ純(39歳、三世)だ。彼が2012年暮れに公開した勝ち負け抗争を描いたドキュメンタリー映画 『闇の一日』を製作する過程で、日の丸を踏まなかっただけで政治警察の拷問を受け、〝監獄島〟アンシェッタ送りにされた日本移民が多数いることを知り、この運動を思い立った。
そもそも奥原が勝ち負け抗争に興味を持ち始めたキッカケは、2000年にフェルナンド・モラエスが発表した著書『コラソンエス・スージョス』(ポルトガル語、コンパニア・ダス・レトラス出版) だった。そこから13年がかりで撮影したのが 『闇の一日』だった。

モラエスの著作以前、多くの二、三世にとって同抗争はまったく未知の出来事だった。モラエス著作は史実に基づいているが、多分に読み物的に脚色しており、「臣道聯盟=テロリスト」という当時のポ語紙の誤解を膨らませた論調が強い。同著作をさらに〝活劇〟風に仕立てたのが、2012年に日本、ブラジルで公開された同名映画(邦題『汚れた心』)といえる。
このような誇張した解釈や方向性に対して、日系人側からの反発心が生まれていた。その一人はエスタード・デ・サンパウロ紙論説委員をする二世、保久原ジョルジだ。父が臣道聯盟の会員だったことから、モラエスが同組織をまるでテロ集団のように描いたことに反発を覚え、自分が父親から聞いた話を軸に日系人側の視点による家族史として『O Sudito  (Banzai,Massateru)(臣民―万歳, 正輝)』(ポ語、2006年、テルセイロ・ノーメ出版社)を著した。
多くの戦前一世にとって終戦直後のドタバタは心理的なトラウマになっており、今も禁句という雰囲気が強い。まして積極的に子孫に伝えるべき内容とはいえない事柄だった。同抗争を語ることがタブーになった余波で、ヴァルガス独裁政権中、特に戦中の日本移民への差別や迫害という部分までもが移民史からぼかされてきた。戦中の日本人迫害に関しては移民70年史、80年史、100年史にも詳しくは扱われていない。ヴァルガスから発刊停止処分を受けた歴史を持つ邦字紙も、反政府的な活動を自粛する方向性を強く持ち、意識的にそれに加担して来た部分がある。
奥原は「勝ち負け抗争は調査のキッカケに過ぎない。今、僕の関心の中心はヴァルガス独裁政権時代の人権問題、日本移民迫害だ。それがあったから勝ち負けは起きた。戦争中に日本移民に起きたことを、ブラジルの歴史としてはっきりさせ、二度とあのようなことが起きないように注意喚起するのが目的。そのためにはヴァルガス時代のことをもっと表に出さないといけない。だから真実委員会に持ちこんだ」と説明する。
モラエスの著作はまさに日系人の心の〝パンドラの箱〟を開けた。
学術界でも人権侵害調査
モラエス著作が起爆剤となり、日本移民百周年の機運がこの方向性に油を注いだ形になった。20084月に出版されたUSP(サンパウロ大学)の日系研究者タケウチ・ユミ・マルシア著『O Perigo Amarelo (黄禍論)』(ウマニッタス出版)により、ヴァルガス独裁政権から戦時中にかけての日本移民と子孫への差別的な抑圧に関する研究が発表され、学術界においても注目を浴び始めた。
機を同じくして08420日付けフォーリャ・デ・サンパウロ紙は、ジャーナリストのマチナス・スズキJR.による日本移民への人種差別を振り返る記事(<spanstyle=’font-size:10.5pt;font-family:”MS Pゴシック”‘>http://www1.folha.uol.com.br/fsp/mais/fs2004200804.htm

<spanstyle=’font-size:10.5pt;font-family:”MS Pゴシック”;mso-bidi-font-family:”Times New Roman”;mso-ansi-language:EN-US;mso-fareast-language:JA;mso-bidi-language:AR-SA’>)を掲載した。移民百周年は歴史をいろいろな角度から振り返る機会だった。
これらに触発され、リオデジャネイロ州立大学ブラジル日本文化研究所によりドキュメンタリー映画 『Perigo Amarelo – o lado B da Imigração Japonesa (黄禍論日本移民の裏面)』(2011年、デビジ・レアル、マウロ・ジル監督、50分)を制作した。二世のアリタ・マサルの証言を映し、リオデジャネイロで戦時中に差別された経験から 「我々は日本人の子供だが、ブラジルで生まれたブラジル人だ。この国でこのようなことが二度とあってはいけない」という血のにじむような証言を引き出した。
同映画の最終部ではゼリア・ブリット・デモルチニUSP教授が「ブラジル政府は戦争中の日本人差別に関して一度も謝罪したことはない。おそらく最も謝罪的な行為であったのは、日本移民百周年の機会に実に積極的な協力をしたことではないか。政府だけでなく、国民全体がそれを意識していたかのように思えた」と語っている。
これらに共通しているのは、日系社会のコンセンサスを受けて運動として広がるのでなく、ほぼ同時多発的に独自に動いている点だ。
奥原の孤独な働きかけ
ルセーフ大統領の肝いりで始まった「真実委員会」下部組織、サンパウロ州小委員会のアドリアノ・ジョーゴ委員長(州議、PT労働者党) と奥原は何度も打ち合わせをして議題として取り上げるように働きかけてきた。同委員会が設定する調査範囲は1946年から88年だが、軍事独裁政権による被害事件が中心だった。奥原は、勝ち負けが起きた原因はヴァルガス独裁政権の人権侵害であり、その続きとして終戦直後の不当な日本移民取締りが行われた訳だから、これも対象になりえる−と考えた。
まず同小委員会で『闇の一日』試写会、日高徳一の非公式公聴会を行った。真実委員会はPT系の人物が中心になっているため、右派や中道派政党に多い日系議員は協力を申し出ることはなかった。日系政治家から議員割り当て金などで支援して貰っているブラジル日本文化福祉協会や移民史料館関係者からも距離をおかれる状態だった。
「あまりに委員会の腰が重いので9月に諦めようかとさえ思った」 と振りかえる。
でもジョーゴ委員長は「正式な公聴会を開くべきだ」と決断し、奥原が真実委員会元委員長のローザ・カルドーゾ弁護士と話す機会を作った。同弁護士は奥原の話に強く感銘を受け、サンパウロ州小委員会がこの件に関する公聴会を行うことを許可し、特別に自ら出席することを決めた。

真実委員会のサンパウロ州小委員会 「日本移民の死と拷問」 公聴会の様子。
左から2人目がジョーゴ州議、カルドーゾ弁護士、奥原、日高。 出典:CVESP(「真実委員会」サンパウロ小委員会


真実委員会としての謝罪
「真実委員会の名において日系コロニアに謝罪する」−サンパウロ州小委員会は同州議会で、昨年1010日午後、「日本移民の死と拷問」に関する公聴会を行い、連邦レベルの同委員会メンバーのカルドーゾ弁護士は特別にリオデジャネイロから出席して、そう謝罪した。
当日は3人が証言した。何の罪もなくアンシェタ島に流された故山内房俊の息子、山内アキラの証言映像が流され、「獄中のことを証言するよう父に何度も言ったが、話したがらなかった。日本人が嫌いな軍曹に拷問や酷い扱いを受けたと父は言っていた」と話した。カンバラ・シズコは、1946年に警察の拷問で亡くなったとされる写真家・池田フクオの投獄の様子を証言した。日高徳一=マリリア在住=は、当時日本移民が受けた違法投獄、拷問などの不当な扱いについて証言した。
カルドーゾ弁護士は「かつてのブラジル人エリートは常に人種差別者だった。ブラジルが発見された当時、下等民族とみなされたインディオが大量虐殺され、黒人は動物、商品として非人間的な扱いを受け、その次は移民、特にアジア系移民が標的にされた。戦争中にその差別が顕著になった」と認め、謝罪した。
2<spanstyle=’font-size:10.5pt;font-family:”MS Pゴシック”;mso-bidi-font-family:”Times New Roman”;mso-ansi-language:EN-US;mso-fareast-language:JA;mso-bidi-language:AR-SA’>時間余りの公聴会には約<spanlang=EN-US>150
人が出席した。奥原は「普通の公聴会は証言を聞いておしまい。今回のように両国歌斉唱をし、戦中を映像で振り返り、日本語の歌を入れ、儀仗兵に追悼ラッパを吹かせて、献花するというのは異例中の異例。ジョーゴ議員がすべて差配してくれた」と深く感謝する。
政府に近い筋が、日本移民への人種差別を初めて正式に認めて謝罪したものであり、ブラジル近代史においてもインディオ、黒人以外にも人種差別があったことを認めたという意味で歴史的な発言といえる。

父の想い胸に次は法務省へ
IMJ<spanstyle=’font-size:10.5pt;font-family:”MS Pゴシック”;mso-bidi-font-family:”Times New Roman”;mso-ansi-language:EN-US;mso-fareast-language:JA;mso-bidi-language:AR-SA’>社は<spanlang=EN-US>1970年10月から日系人初のテレビ番組を始めた伝統ある会社で、奥原康永(兄)と奥原マリオ清政(弟)が共同経営していた。芸能人招聘事業を頻繁に行い、同年<spanlang=EN-US>8月には美空ひばり公演まで成功させた。清政の息子、奥原マリオは真実委員会に今件を持ち込んだ理由を、「父がブラジルに渡ったのは<spanlang=EN-US>1937年。まさにヴァルガスの新国家体制が始まった年だった。当時、父の家族はアラサツーバに住んでいたが、日本移民への暴行、犯罪はひどいものだったと何度も父から聞いた。本来なら、父は自分のテレビ番組の中でそのことに触れたかったが現実には不可能だった。だって当時は軍事政権の時代だから」と説明する。
「父はいつもブラジル政府は日本人に謝るべきだと言っていた。このような残酷な歴史が繰り返されないようにするためには、まず公式な組織が歴史的な事実として取り上げ、そこで認められることが必要だと思った」。
真実委員会への働きかけはこれで終わりだという。奥原は「今回の謝罪はあくまで委員会としてのもの。政府の正式謝罪まで持って行きたい。大統領もしくは連邦議会だ。だから次はこの件を法務省に持ち込むつもりだ」と語った。

(文中敬称略)